• ファミリービジネス特有の問題|
  • ファミリーオフィスの重要性|
  • 老舗訪問記

Alt=第5回老舗訪問記 山形県酒田市「経済的自立が生んだ自由な空気の中で~その1」

印刷用PDFはこちら

< あとがき >


豪商の街・酒田

豪商の街・酒田1
豪商の街・酒田1
豪商の街・酒田2
豪商の街・酒田2
庄内藩の歴史と伝統を背景に

山形県酒田市の歴史は古い。酒田は、平安時代から最上川南岸の港を中心に発達した軍港であり、北方交易の中心だった。12世紀に、酒田に落ち延びた奥州藤原の家臣団が定着し、現在の酒田港を築き、交易と商業を支配し街の原型を作ったと伝えられる。
江戸時代に入ると幕府直轄地を抱える出羽・酒田を起点に、東北の米を大坂に届けるための西回り航路「北前船」が整備された。酒田の商人たちは北前船による交易を掌握し、隆盛を誇った。その富裕な廻船問屋の連合体が奥州藤原家臣団の系譜とされる『三十六人衆』である。街ではその富を背景に料亭文化が発達した。日本一の地主と呼ばれ、商人ながら庄内藩の財政改革を行った本間家、『日本永代蔵』に登場する豪商『鐙屋』も酒田の商家である。
明治期に敷設が始まった鉄道による陸運に代わられるまで、酒田は豊かさを謳歌し、商人の街・港町の培った文化は自由で進取に富む気風を作り上げた。明治27(1894)年庄内地震による大火、昭和51(1976)年『酒田大火』と二度の大災害に見舞われたが、挫けることはなかった。とくに酒田大火では、人々は官も民もみな協力して、例のない早さで復興を遂げ、復興のモデルケースとして名を残している。

創業は江戸中期、300年の老舗・萬谷

創業は江戸中期、300年の老舗・萬谷1
創業は江戸中期、300年の老舗・萬谷1
創業は江戸中期、300年の老舗・萬谷2
創業は江戸中期、300年の老舗・萬谷2

山形県酒田市市街から羽州浜街道、国道112号線から7号線に合流する手前に(株)萬谷がある。ここは最上川沿いに発展した酒田の街発祥の地である。現在、茶と茶道具、洋食器・和食器、ギフトなどを幅広く扱い、二階建てのビルを店舗に持つ。創業は正確にはわからないが、300年以上前にさかのぼるという。
江戸時代、酒田は富裕な廻船問屋の連合体『三十六人衆』の力が強かったが、船は投機的な部分もあり、三十六人衆はかなり入れ替わっている。北前船の富を背景に料亭文化が発達したが、萬谷は代々堅実な商売と暮らしを守った。料亭には背を向け、もてなしはもっぱら自宅で行ったそうだ。
その萬谷には『家道訓』というものが残されている。
「江戸時代の先祖の石山傳次郎という人が明和8年(1771年)に書いております。家を治める人はこれを心がけなさいというものです」
萬谷家には、現代語訳した『家道訓』が置かれ、いつでも目に入るようになっている。いわく、正しくあること/誠実であること/誇り持つこと/自分があること/前を向くこと/歩み続けること/自分を信じること/ベストをつくすこと/謙虚であること/楽しくやること
そこには、時代によらず変わらざる精神が書き出されていた。
15代目故・隆吉氏の妻、16代目隆幸氏の母であり、(株)萬谷で専務を務める萬谷和子氏に話を伺った。

飛脚からお茶の販売に

飛脚からお茶の販売に
飛脚からお茶の販売に

萬谷家は、明治のはじめに屋号『萬屋』を『萬谷』に代え、萬谷姓を名乗っているが、祖先は琵琶湖湖畔の近江八幡出身の石山氏という。
「石山さんは、はじめは飛脚だったんですよ」
出羽の殿様・酒井氏の飛脚として文書を運ぶ帰りに、静岡のお茶を持ち帰ったことが商売の始まりだったと、萬谷では口伝されている。
「昔はこのあたりは自給自足で、お茶も自家用に作っていたようですが、品質は良くなかったのでしょうね。ですから、持ち帰ったお茶をご近所の人たちが喜んでまた頼む、といわれるようになって。そんな風に商売が始まったと聞いています」
やがて茶だけでなく陶器も扱うようになり、商売の幅を広げ、『萬屋』という店を構えた。初代は石山傳兵衛という。
「うちにある『本因下種過去帳』に『宝暦8(1758)年12月傳兵衛母死亡』とありますから、それ以前からここにいたことは確かです。18世紀の初めくらいからでしょうか、お茶と陶器の取り扱いをしており、北前船の廻船業も営んでいたようですね」

北前船に乗り、さらに遠くへ

北前船に乗り、さらに遠くへ1
北前船に乗り、さらに遠くへ1

萬谷の店舗ではお茶のほかに茶道具と陶磁器も多く扱っている。
しかし、スタートはお茶。お茶にはこだわりと思い入れがあり、静岡に自社の茶園を持つ。
「お茶というのはすぐ移り香がします。お茶に匂いが移らない品物だから、陶器も扱ったわけです。ですから、主体はお茶なんです」
代々の旅の記録を記した仕入れ帳の帳面を繰りながら和子氏は語った。
「昔のことですから、旅は命がけでした。実際に京都で元禄に一人、安政年間に一人死んでいます。仕入れに出るときは水盃を交わして出たそうです」
代々旅装に使われた柳行李の蓋には墨文字で「文久二年(1862年) 出羽酒田秋田町萬屋伊エ門 ○三月拾七日 九州肥前伊万里」と記されている。茶や陶器を求めて京都へ、さらに九州有田伊万里まで足を延ばしていた様子が伺える。

北前船に乗り、さらに遠くへ2
北前船に乗り、さらに遠くへ2

また、萬谷家には小さい厨子が伝わっている。萬谷家の守り本尊である大黒様が安置され、代々の当主が旅に出るとき帳簿とともに必ず携帯していたそうだ。その背にも、明和8(1771)年とあり、商いの物言わぬ証人となっている。

※明治27(1894)年の庄内地震のおり、続いて起こった大火で萬谷も全焼したが、船金庫・代々の帳簿類などは当時の番頭が火に包まれる前に持ち出して守り、当時の商業と北前船の商売を伝える貴重な資料として残された。

今に生きる「家道訓」

今に生きる「家道訓」
今に生きる「家道訓」

昭和2(1927)年生まれの和子氏は、14代伊右衛門の跡取り娘。幼い頃から、静岡の茶園から届く新茶を味わい、父が庄内の好みに合わせ茶をブレンドするのを見た。長じては、店に立ち、家庭を切り回してきた。和子さんが実践している仕事の信条は、まさに『家道訓』そのものだ。
「責任を持つことが大切です。静岡に茶園を持ったのも製品に責任を持つためです。茶樹は100年から150年のものからいちばんいいお茶ができるといいます。うちの茶樹は父が植えたものですからちょうどそれくらい。ほかの、毎年買い付ける茶についても吟味しています。商品についてよく学び、お客様と話し合って、お客様が本当に必要な商品をお勧めする、買っていただければ私たちはうれしい。お客様は用途にあった商品が買えてうれしい、それから使ってみてまたうれしい、と言われることでまた喜びが戻ってくるんです」
売って喜び、買って喜び、使って喜ばれる、それが萬谷の商売、と和子氏は言う。何より、初代が持ち帰ったお茶をおいしいと喜んでくれた、その商売の始まりを萬谷では今も大切にしている。

地域とともにあるからこそ

地域とともにあるからこそ
地域とともにあるからこそ

昭和51年(1976)年10月29 日の『酒田大火』では、1774棟が全焼、3300名が被災した。萬谷は、風上だったため火災を免れた。
ほぼ一晩中燃え続けた火が消し止められたのが翌午前五時。まだ町に煙の立つ30日、萬谷は秋の売り出し用に仕入れてあった品物から、食器や箸類3300名分を提供。地域で長く商売をしてきたから萬谷にとって、住民ひとりひとりが縁ある大切なお客様、だからこその行動だった。救援物資として届けられた品物には、すべてを失った被災者から多くの感謝が寄せられた。
また、平成2年、駐車場を整備したときに古い井戸が見つかった。鳥海山の伏流水で水質もすばらしい。調査をすると江戸時代に大切に使われていた井戸だった。翌年、水を味わった京都大徳寺の高僧より『庄内薬師水』と命名された。
「先年、105歳で亡くなった大徳寺の立花大亀老師様が、『平成の快挙である』と名付けてくだいました。お茶を扱う萬谷に名水が出たのも何かの縁です。皆さまに楽しんでいただければ、嬉しいです」
萬谷は、この井戸に坪庭を整備し、蛇口をつけて誰でも無料で利用できるようにしている。

老舗の使命は商売だけではない

老舗の使命は商売だけではない
老舗の使命は商売だけではない

店舗の奥にある明治34年築の古い蔵を開いてもらった。大黒柱が真ん中で太い梁を支えている。注連縄と紙垂(しで)で聖別され、榊が捧げられている。毎年1月11日には日枝山王神社の禰宜にきてもらい、蔵開きの神事が執り行われる。一年の無事を、これまでの感謝とこれからの希望を、一族・従業員そろって謙虚な思いで祈る。

蔵は現在も倉庫として使われており、銘窯の陶器から洋食器・生活雑器まで、実にさまざまな商品がおかれている。
「お茶と陶磁器については文化として次代へ伝える手伝いをしたいと考えております。これは私たちが商売を続けてこられたことへの感謝であり、義務ですから」
こうした意識のもと、和子氏は『なごみ 知の旅』という旅行を企画。毎年、陶磁器や茶道具の産地や作家のもとを訪ねている。
旅には17代目になる孫の伸之氏も同行する。
「基本が大切です。学ぶことに卒業はありません」

柿の木が見守る古くて新しい萬谷

倉庫のそばには、柿の古木が建物に寄り添うように立っている。
「柿はもっとたくさんあったんですよ、柿渋を取るのにね。昔は全部ここでやっていたの。建物を建て替えるのに切りましたが、一本だけ残してもらったの。百匁柿といって、大きい実をつけます。先々代が植えたものだから140年くらいでしょうか」
柿渋は、生紙(漉いたままの和紙)に一枚ずつ塗って、お茶の包み紙として使われた。お茶を、湿気や酸化、虫から守るものだった。和子氏はよく働いてくれた柿の木に感謝をこめて大切に手入れをし、手ずから干し柿を作っている。
「次の世代へ伝えることですか? 家道訓はございますが・・・三歩考え、二歩話し、一歩着実に行動に移す、ということでしょうか。みなで、協力して新しい家風を育ててくれればいいと、思っております」と和子氏は結んだ。

あとがき

インタビューを終えて

酒田市立琢成小学校のみなさん インタビューを終えて
インタビューを終えて

百合菜さん 「わたしは、酒田市立琢成小学校四年・佐藤百合菜です。今日は、みんなで市内の百年以上続いているお店にきました。 よろずやさんは、三百年も続いている食器とお茶のお店です。昔はお茶だけ売っていて今でもそれが残っているそうです。古い倉庫と駐車場のとても深い井戸を見せてもらいました。五年生の佐藤ひかりさん、いかがでしたか?」
ひかりさん 「昔の倉庫で、大黒柱をさわらせてもらったり、古くてすごく急な階段を上って倉庫の二階を見せてもらったり楽しかったです。階段を下りるときに、百合菜さんが高いところが苦手なのを初めて知って、ちょっとおもしろかった。井戸の水は本当に冷たかったですね。長く続いていて、お父さんやお母さんも買いにきているお店なので、大切にしていきたいなと思いました」
百合菜さん 「だって、あんなハシゴみたいに急な階段は初めてだったから・・・じゃあ、四年生の佐藤梯人さん、感想をお願いします」
梯人さん 「お店の裏へ行って倉庫を見せてもらったり、井戸のところでは水を流しているところだけじゃなくて、水が湧いている井戸の中をのぞかせてもらって、井戸が深くて驚きました。お店の取材ははじめてだったけれど、おもしろかったです。古くからのお店の歴史はすごく勉強になりました」
百合菜さん 「最後に、四年生の永田紗季さん、どうでしたか」
紗季さん 「倉庫で、柱が真ん中に立っているのがすごく珍しいと思いました。大黒柱って初めて見ました。あと、お茶やさんが井戸を見つけたなんて、すごくふしぎな感じがしました」
百合菜さん 「会社の応接室の額に『鳥の目 虫の目 心の目』と書いてありました。いつもこんなモットーを持ちながらがんばっているのは、とてもすごいと思いました。それから、井戸のお水が冷たくてとてもおいしかったです。こんなお店が酒田にあって、いろいろ教えてもらえて、とても楽しかったです。
はい、では、みんなで」

全員 「ありがとうございました!!」

< 株式会社 萬谷 >

住所: 山形県酒田市中町3丁目7番33号
電話: 0234-23-2222
創業: 江戸時代中頃(株式会社 1980年より)
URL: http://www.yorozu.co.jp/

セミナーのご案内

セミナーのご案内

F.B.N. Japanでは、著名講師を迎えての大規模なオープンセミナーから、懇談形式で意見を交換しながらファミリービジネスについて学ぶ小規模分科会まで、ファミリービジネスに関わる方たちに、交流・学びの場を提供しています。ぜひこの機会にご参加ください。

詳細情報へ