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第2回老舗訪問記 東京都 ヤシマ工業株式会社「壊さないことに取り組む企業」

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< あとがき >


壊さないことに取り組む企業

壊さないことに取り組む企業
壊さないことに取り組む企業
壊さないことに取り組む企業
壊さないことに取り組む企業

ヤシマ工業は下総(現在の千葉県北部)から江戸へ出た創業者・文次郎が、1804(文化元年)年、本所業平(現在は墨田区業平)に下文(しもぶん)という商号で柿渋の問屋を開業したのがはじまりである。

下文という名前は下総の国出身、文次郎ということでつけられた。柿渋とは、渋柿を砕いて絞った汁を発酵熟成してつくった塗材で、当時は膳、家具、和紙小間物など、あらゆる生活用品の下地塗材として使用されていた。

そんな柿渋に目をつけた文次郎はなかなか商才があったようで、下文の店舗は、裏が川に面して倉庫が建ち並び、柿渋は産地から伝馬船で運ばれていた。当時の渋柿は産地でタルにつめられ、倉庫内で大人が入れるほどの大きさのヒノキ製槽に移し替えられられ、文次郎は新しい柿渋が届くと自身の口に含んで濃度を測り、渋柿の濃淡によって加える水の量も変わったという。それはもうひとつひとつが真剣勝負、文次郎は全身全霊をかけて家業にとりくんでいた。

この作業は後年も代々続き、六代目である久保田陽一郎(現社長である小里洋行社長の義父)はこの利き渋作業で「祖父裕太郎の唇が黒く焼けていたのが印象深かった」と晩年に語っている。

東京大空襲で店舗を焼失

東京大空襲で店舗を焼失
東京大空襲で店舗を焼失

明治に入ると、外国産塗料が江戸にも入ってくるようになる。そのため化学性防腐剤が普及しはじめ、柿渋の需要が激減。そこで下文も接着剤、ペンキの販売に乗り出した。四代目裕次郎の代に「下文商店」と改称し、店舗を向島区(現在の墨田区)寺島町に移転、さらに五代目房治郎の代には「下文塗料店」と改称し、代々引き継がれていった。
しかし1945(昭和20年)年の東京大空襲で店舗、施設を全て焼失してしまい営業中断をやむなく強いられる。六代目・陽一郎は「父・房治郎と柔道着を着て、倉庫が燃えるのを廃墨で消火に当たった。そのため、全身墨をかぶって真っ黒け」と語っている。しかしそんな逆境にも負けず、4年後の1949(昭和24年)年、六代目・陽一郎は「八州(ヤシマ)商会」と名前を改め、焼土復興の中、神田練塀町に本社を移転し、木工用接着剤、和・洋膠の販売店として再スタートする。

ゼロからの出発

ゼロからの出発
ゼロからの出発

その後、昭和27年に杉並区大宮に移転し、「八州塗料商会」「ヤシマペイント工業」「ヤシマペイント(株)」と組織変更を経て、陽一郎は業務拡大を図ってきた。陽一郎は六代目とはいえ、平坦な道を決して歩んできたわけではない。
終戦直後には父・房治郎が病床についたため、弟妹6人を含む家族の大黒柱として無我夢中で働いてきたという。これについて陽一郎は「下手に身代などを抱えていると守りの殻にとじこもりがちになってしまうが、私の場合、戦災で無になったのが、むしろい良い結果をもたらしたようだ」と語っている。現に再スタートした翌年1950年(昭和25年)には「八州塗料商会」と改称し、塗装工事請負業に参入。以後外装工事全般や建築物改修と堅実に事業を拡大していった。

壊さないことへの挑戦

壊さないことへの挑戦
壊さないことへの挑戦

文次郎の「渋柿問屋・下文」から160年後の1964(昭和39)年に建築内外外塗吹付け、塗装工事をメインとして「ヤシマ工業株式会社」と改称。現在はマンションやビルなどの長寿命化や省エネ化改修、住環境改善事業などを通じて、地球環境問題に積極的に取り組んでいる。同社はこのような取組みを「グリーン・レトロフィット」と呼び、日本全体に普及させるための啓発活動を行っている。
下文の柿渋・漆・塗料販売からはじまり、和・洋膠(ようにかわ…)の販売、戦後はセメント系ウォーターペイントを製造販売、そして現在はアスベストの調査から除去工事、緑化した庭園事業なども加わり、ヤシマ工業は時代のニーズに合わせて、扱う商品やサービスを変化させてきた。しかしその根底にはいつも同じポリシーがあった。それは文次郎が柿渋で体現してきた「建物を長持ちさせること」である。
現本社は杉並・上井草にある。閑静な住宅街の中にある本社は日本式庭園があり、ここが東京なのだろうか、と思わせるほど。七代目の小里洋行社長は陽一郎の女婿で、1978(昭和53)年ヤシマ工業に入社。鉄筋コンクリート建築物の壁面補修工事、アスベスト(石綿)対策リフォームを手がけた。「きちんとメンテナンスすればマンションは80年もちますよ」と語る小里社長。建物を長持ちさせることは建物のスクラップ&ビルドの限界からくる「行き場のない建築廃棄物」の解消にもつながる。
柿渋問屋・下文から数えて206年(平成22年取材時)。この間、ヤシマ工業は「建物と住まう人」そして「環境を守り続けた」ことになる。「本社をおく杉並区は緑も多く、私たちにとって大切な場所です。だからこそ『壊さないことへの挑戦』をこれからも続けていきますよ」と小里社長は熱く語る。
※膠(にかわ)は、動物の皮革や骨髄から採られる強力な糊で、当時、木工の接着剤などとして使用されていた。現在でもヴァイオリン製作などに使用されている。

あとがき

区民ライターとして地元の企業を知る愉しさを知った

区民ライター 高橋貴子
区民ライターとして地元の企業を知る愉しさを知った
区民ライターとして地元の企業を知る愉しさを知った

杉並区には、地域資源を発掘すべく区民ライターという登録制の取材・ライター活動がある。区のメディアでヤシマ工業を取材したのだが、その奥深さと歴史についてより広めたいと改めてファミリービジネスの観点からヤシマ工業を再取材させて頂いた。

日本では、まだじゅうぶん住むことができる家やビルが次々に壊され更地になり、そこに新しい家やビルが建つということが普通の光景になってしまっている。取材によって「再生する建物」に意識が高まった私は「まだここを直せば住めるのではないだろうか?」とビルが壊される現場に遭遇するたびに思うようになった。
人々が「壊さないこと」への意識をもっと持ち続けていれば、家や建物に対する気持ちが変わってくるのではないだろうか?
長く大切にするということは、デザインや機能にも気を配るようになるということである。ヨーロッパのような街並とまではいかなくとも、美しい家やビルがその土地に100年以上立ち続け、そこに暮らす人々の暮らしを見てきた、という建物が時にはあるのも素晴らしいのではないだろうか。 今の日本の建築物も十分センスの良いものもあるのだが、そんな建物も所有者が変わったりすると壊されて新しい建物が建つ。これはとても残念なことである。

ヤシマ工業の本社は「これが築40年!?」と思わせる素敵な会社の応接間と庭園。1階は会議室として使用されているとのことだが、2階は社員寮になっている。「地方からの社員たちに安心して仕事をしてもらいたくて寮にしています」という小里社長。これはヤシマ工業に入社してきた地方出身の新入社員は「両親から預かっている」という気持ちでいるという。このような昔ながらの「良い部分」が残っているところはさすが200年続く「老舗」らしい印象を受けた。ヤシマ工業は「建物を長持ちする文化」をこれからも伝承し続けるだろう。

◆参考文献:
・『わたしの遠雷 久保田陽一郎集成』(自費出版)

< ヤシマ工業株式会社 >

住所: 東京都杉並区上井草2丁目14番3号
電話: 03-3394-1771
創業: 1804年(文化元年)
URL: http://www.yashima-re.co.jp/

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