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第1回老舗訪問記 福島県 南相馬市の老舗「創業110年企業の多い南相馬市」

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< あとがき >


歴史ある南相馬

歴史ある南相馬

福島県南相馬市は福島県北部に位置し、太平洋に面している。小高町、原町市、鹿島町の1市2町が合併して、平成18年1月に誕生した。市内には東北地方でも3番目に大きな前方後方墳の桜井古墳がある他、多くの古墳等があり古くからこの地に人が暮らしていたことがうかがえる。また、南相馬を代表する祭り「相馬野馬追」は1千年もの歴史がある。毎年7月23~25日にかけて行われ、出陣式から始まり、騎馬武者行列、雲雀ヶ原祭場地にて行われる甲冑競馬や神旗争奪戦など、甲冑を身に着けた騎馬武者により、祭り期間中は勇壮な戦国絵巻が繰り広げられる。
市の南北を貫く県道120号線は「陸前浜街道」と呼ばれ、北の仙台藩から水戸街道を経由し江戸を結ぶ街道として古くから存在し、旧原町市の本町付近は宿場として多くの人が行き交った。

-ブライダル&ホテル ラフィーヌ(旧中野屋旅館)-

原ノ町駅前旅館 中野屋の誕生

原ノ町駅前旅館 中野屋の誕生
原ノ町駅前旅館 中野屋の誕生
原ノ町駅前旅館 中野屋の誕生
原ノ町駅前旅館 中野屋の誕生

ブライダル&ホテル ラフィーヌ(以下ラフィーヌ)が、中野屋旅館として産声をあげたのは明治33年。その年に鉄道が開通し、常磐線原ノ町駅ができることになった。ところが住民から「町の中心(陸前浜街道)近くに鉄道を通すのは反対」という声があがり、中心から離れ住民の少ない場所に駅を建設した。そのため新しい駅の利便性を図ることを目的として、役場は2軒の旅館と1軒の土産物店を誘致する。そのうちの1軒が中野屋だった。駅前の新しい旅館はあくまでも支店という扱いで、三男の塩谷三五郎氏に任せることにした。
木造の3階建てという当時としては珍しい建物で、中野屋は駅前旅館として原町を訪れるたくさんの人々でにぎわった。
※原ノ町駅の読みは「はらのまち」、合併前の市名、合併後の区名は「はらまち」である。

現会長は語る

現会長は語る
現会長は語る

5代目の社長であり、現会長の塩谷美津江氏は4代目社長塩谷晋一氏の妻である。小学校の同級生という幼馴染の晋一氏と結婚した美津江氏は、まさか自分が旅館の仕事をするとは思ってもいなかった。結婚した当初、晋一氏はサラリーマンとして東京で働いていたのだ。そこに晋一氏の父で3代目社長の孝一氏の体調が思わしくないという連絡が入り、晋一氏は家業を継ぐべく中野屋旅館へ戻った。そこから美津江氏の女将修行が始まる。
「本当に周囲の人は皆さん年上ばかりで……。たいへんでしたけど、何もわからない私に優しくいろいろなことを教えてくれました」
美津江氏夫婦が中野屋に戻ったのは、経済が順調に伸びていった頃でオイルショック以前だった。

若夫婦の決断

それがオイルショックを境に思うように売り上げが伸びなくなり、晋一氏と美津江氏はとある決断をする。
「これからは旅館ではなくホテルの時代なんじゃないかと思い、旅館を辞めてホテルにしようと決めました」
周囲からの反対は無いわけではなかった。しかし、先代社長が病弱な中、晋一氏の母親である女将は若い夫婦にこう伝えた。
「これからは、あなたたちの時代だから、あなたたちの好きなようにやりなさい」
それと共に、この旅館の全権を渡し、その後も2人のすることに一切口を出すことはなかった。
「その言葉が大きかったですね。何もかも私たちに任せてくれたので、逆にとても責任が重かったです。」
中野屋旅館をホテルにしようと取引のある銀行に融資をお願いしたが、原ノ町にはホテルはいらないと断られてしまう。そこで夫婦は第一ホテルグループとフランチャイズ契約を結ぶことにした。昭和56年、中野屋旅館は「第一イン原町」として生まれ変わった。
第一ホテルより派遣されてくる経験豊かな人に刺激を受け、ホテル業やサービス業を一から学んでいく。

人を育てるために

第一イン原町になり、時代は経済が安定しバブル期へと突入していく。こうなると難しくなるのが、人材の確保だ。好景気でも地方のホテルに就職しようとする若者は少ない。また、雇っても長続きしない者もいて、人材が育たないのが悩みとなる。どうすればよりよい人材が育つのだろうかと、美津江氏は考える。そこで自分が中野屋で働き始めた頃のことを思い出した。
「人って大事にすると頑張るでしょ。それには、スタッフのアイディアも積極的に聞いて、取り入れていくようにしてます。それがやる気にさせ、モチベーションをキープさせることになるんです」
特別な社員教育はしていない。スタッフ全員で作っていくホテルを心がけている。現在も社員は10人、パートタイマーは20人だ。人件費をかけずに、サービスのグレードを保つよう努力している。それが顧客満足度につながり、多くのリピーターを獲得している。
それは従業員も同じで、過去にこのホテルで働いていた女性たちも、結婚して子育てがひと段落するとパートタイマーとして戻ってくるという。

ブライダル&ホテル ラフィーヌ

ブライダル&ホテル ラフィーヌ
ブライダル&ホテル ラフィーヌ

第一ホテルとのフランチャイズ契約が終わり、2000(平成12)年元旦、新たに「ブライダル&ホテル ラフィーヌ」となる。ブライダルの名を付けたのは、ある思いからだった。
「昔、旅館だった頃からこの地方の人たちの間では『駅前の旅館で結婚式を挙げられたらいいよね』と言われていたんです。ホテルの業務として宿泊・宴会・婚礼がありますが、婚礼が最も私たちらしさを出せるんです」
ラフィーヌは客室が28室しかないが、宴会場は6つあり300人もの宴会まで対応できる。 ホテルのロビーにはカップルを迎え入れるためのスペースが大きくとられており、婚礼に力を入れていることがうかがい知れる。

現在、そしてこれから

現在、そしてこれから
現在、そしてこれから

4代目社長の晋一氏が亡くなり、5代目として美津江氏が社長となった。晋一氏の弟と、支配人の後藤氏と3人力を合わせてラフィーヌを経営してきた。そして2006(平成18)年、美津江氏は支配人の後藤氏に社長を譲る。
「私にも4人の子どもたちがいます。今は皆それぞれ好きな仕事に就いています。本人たちにその気がないのであれば、無理にホテルを継がせようとは思わないですね」
塩谷家における中野屋旅館から続いたファミリービジネスは一旦終わりを告げるが、美津江氏は会長となった現在でも勤務を続け、月に幾度かは夜勤もする。
「旅館から始まり110年続いたこのホテルが、ホスピタリティをキープしながら、お客様に愛され、この先もずっと続いていくことが、私の夢です」

―ロイヤルホテル丸屋―

原ノ町駅と共に

原ノ町駅と共に
原ノ町駅と共に

前述の中野屋旅館と共に、原ノ町駅の駅前旅館として誘致されたのが、丸屋旅館。創業は明治元年となっているが、こちらも江戸時代より本町で旅籠を営んでいた。詳しい創業年は資料がないため不明だが、明治元年には確実に「丸屋」として営業していたため、そのようにしたという。
原ノ町駅前の丸屋旅館は、木造の3階建てで開業。初代社長は前田伊八である。原ノ町駅ができると共に、駅構内での営業販売権を取得した。

3代目社長は語る

現社長の前田敬氏は今年83歳(2010年現在)。学生時代を東京で過ごし、卒業と同時に帰郷して丸屋旅館で働くことになる。旅館の息子として育ったが、特に手伝いをした記憶は無いという。

3代目社長は語る
3代目社長は語る

「父を中心として、ベテランの従業員の方々がおりました。また、当時は戦争中で私は中学で学徒動員されましたので、手伝うことなどできませんでした。だから、大学を卒業してこちらに戻ってきてのスタートでした」
敬氏が丸屋で働き始めて、まず最初に着手したのは食堂の開店だった。
「私がまだ幼かった頃、旅館に食堂が併設されていたんです。ところがそれが昭和の初期に閉鎖されてしまい、子ども心にとても寂しかったんですね。だからまず、食堂をやろうと決めました」
レストラン「ロア」に続き、そば処「まるや」も開店させた。その後は、国道6号線沿いにもレストランをオープンさせ、ストア(スーパーマーケット)も手がけるようになった。

駅弁ブームの到来

駅弁ブームの到来
駅弁ブームの到来
駅弁ブームの到来
駅弁ブームの到来

蒸気機関車の時代、原ノ町駅では給水や石炭の補給などで、列車の停車が5~8分ほどあった。お腹を空かせたたくさんの乗客たちは、この停車時間中に駅弁を買う。特に昭和30年代の半ばには、駅弁が数多く売れたという。その当時、原ノ町駅構内には4軒のお店があり、駅弁を売っていたのは丸屋と中野屋だった。
そこで、とある駅弁が脚光を浴びることになる。敬氏の考案した「鮭めし弁当」だ。鮭の形をした瀬戸物を器に用いたところ大人気となり、東京の高島屋が開催する駅弁大会に招かれた。

「これがきっかけになって、北は北海道から南は九州まで、全国の百貨店で開催される駅弁大会に呼ばれるようになりました。私は『うちの連中が炊くから旨い』という自負があったので、どこにでもスタッフを連れていきました。百貨店の方から、レシピを教えてくれれば、こちらで作りますと言われても、それは譲れなかったですね」

後にオイルショックにより瀬戸物の器が高騰してしまい、鮭めしのセールスポイントだった器をあきらめなければならなくなる。そこで敬氏は、また考えた。
「容器を発泡スチロールにして、発熱体を入れました。紐をひっぱると発熱体が熱を出し、お弁当を温めるんです」
アイディアマンの敬氏ならではの、発想の転換だ。今でも鮭めし弁当は、人気商品として原ノ町駅の名物駅弁となっている。
現在、JR原ノ町駅では駅弁を販売しているのは、丸屋の1軒だけになった。しかも今どき珍しい、立ち売りのスタイルを維持している。鮭めしの他に、かにめし、ほっきめし、幕の内弁当など、種類も豊富だ。
「私は原ノ町駅で駅弁を売ることを、自分の使命と思っています。この地に駅ができていなければ、ここで旅館をはじめることもなかったでしょうし、駅弁を売ることもありませんでした。原ノ町駅と共に、丸屋はあるんです」

旅館からホテルへ

旅館からホテルへ
旅館からホテルへ

木造3階からはじまった丸屋も、昭和初期に木造2階に改築し、その後も昭和50年代、60年代と改築や増築を経て、現在のロイヤルホテル丸屋となった。敬氏は旅館業・ホテル業について先代の父から、特に教わったことは無いという。
「何も言わずともわかるだろうと、父は思っていたのではないでしょうか。私もそんな父を見ながら、学んでいきました。でもまだ、父の域にはたどり着けません。私が若い頃、父を知るスタッフがよくこう言っていました。『旦那様は忙しいときほど、怒らなかった』と。気の短い父だったのに…」
また敬氏は常に、お客様に安心して宿泊してもらうことを考えているという。
「お客様から『やっぱり丸屋だね』と言われることが、なによりの喜びです。そのためにどうするのかということです」
敬氏の長男である、前田一男氏が4代目となるべく現在は丸屋の専務を務めている。先代の社長と同様に、敬氏も一男氏には仕事のことでは特に何も言わない。それは、自分で気付き、自分でやっていくことが一番だからという思いからだ。

明治33年に原ノ町駅前にできた2軒の旅館と1軒の土産物店。後に土産物店は閉店してしまうが、現在でも原ノ町駅前には2軒のホテルが老舗の風格を保ちつつ並んでいる。今でも互いに切磋琢磨しながら隣同士で営業を続けている。

あとがき

―― 松永牛乳 ――


名物アイスまんじゅう

杉並区 小学校六年生
名物アイスまんじゅう
名物アイスまんじゅう
名物アイスまんじゅう
名物アイスまんじゅう
名物アイスまんじゅう
名物アイスまんじゅう
名物アイスまんじゅう
名物アイスまんじゅう

こんにちは、ぼく達は東京都杉並区の小学校六年生です。南相馬市は杉並区と防
災協定を結んでいるのですが、ほかに少年野球の交流もしています。毎年小学校高学年の何チームかが、南相馬市にやってきて地元の野球チームと試合をしたり、地元の人と食事をしたりするのですが、今回は子どもライターとして、南相馬市の松永牛乳さんへ行きました。
この会社は110年も前にできたそうです。
「南相馬の学校給食では、松永牛乳の牛乳を飲むんだよ」と教えてもらいました。

牛乳と共に有名なのが、アイスまんじゅうです。これは60年以上も昔から、作られてきたそうです。その頃は1つ15円でしたが、今は120円です。外側のアイスの部分は、生乳を使って作っています。これは牛乳屋さんならではの、こだわりだそうです。そして中に入っているあんこも、研究を重ねて絶妙なやわらかさを実現したということでした。食べた感想は、アイスはサクっとしててそんなに甘くないけど、中のあんこがやわらかくて甘さもちょうどよかったです。お花の形をしているのも、おもしろいなと思いました。アイスまんじゅうは手作業で作っているので、そんなにたくさんは生産できないそうです。機械を使わずに、ひとつひとつ作っているということに、おろどきました。
松永牛乳のアイスまんじゅうは、南相馬では大体どこでも買えるけど、東京では売ってません。東京でも食べられるようになるといいなと思いました。

杉並区立杉並第七小学校 石崎龍一 辻二郎 手塚一樹

< ブライダル&ホテル ラフィーヌ >

住所: 福島県南相馬市原町区旭町2-29
電話: 0244-23-4111
創業: 1900年(明治33年)
URL: http://www.raffinehotel.com/

< ロイヤルホテル丸屋 >

住所: 福島県南相馬市原町区旭町2丁目28番地
電話: 0244-23-6221
創業: 1867年(明治元年)
URL: http://www.maru-ya.jp/

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